tomohappiestの日々是雑感

日常生活でのふとした出来事から大イベントまでその時感じたことを書いていこうと思っています!!

私と国際交流活動との出会い(大学編2)

 【大学編1】からの続き。

 失意のどん底にいた時、同じクラスの友人が、「100キロハイク」に参加してみないかと誘われた。
 うわさにはきいていたが、埼玉県の本庄市から大学のキャンパスまでを2日間で歩きつくす企画。
 参加費3500円を払って、なんで疲れる思いをしなければいけないのか・・と思ったが、このときはとにかく何か自分に試練を与えて目の前の現実から逃避したい気持ちのほうが勝った。
当日は、微熱で体調が悪かったが、無理して参加。
参加者約800人のもと、ご学友たちとともに午前10時、皆思い思いの格好で本庄駅を出発。はじめこそ元気いっぱいだったが、第二中継地点である寄居中学校(20KM地点)につく頃には、下駄を履いたために足に豆をつくったり暑さでばて気味の人が続出。
 それでも、まだ序盤のため、リタイヤは出なかった。次の20KM先にある休憩地点の越生高校につく頃には、ぼちぼちとリタイヤするものも現れた。
 途中の休憩地点で、やさしい看護士の卵さんたちに足の治療とマッサージを受け、少し生き返った。リタイアが続出したが、持ち前の負けず嫌いが前面にでて乗り切ることができた。足を引きずりながらも無事PM6時に大学のキャンパスにゴール。
 これだけ苦労して歩いてきたが、ゴール会場は味気なかった。今回は100キロハイクに参加することを誰にも話していなかったので、熱烈歓迎してくれる者もなく賞状1枚で終わり。
それでも、この大会に参加して、自分との孤独な戦いに勝ち、一回り自分が成長した。そして、いつのまにか失恋したことも忘れるくらい吹っ切れた気持ちになった。

 そうこうしているうちに、前期試験の時期がきた。
授業に欠席していたつけが溜まって、前期試験はとても苦労した。周りの学生は要領よく、ノートのコピーを確保したりしていたが、
 私は、すべて独学でこなしたので、散々たる結果だった。夏休みは、埼玉県のマリンセミナー(埼玉県内に住む20代の学生がチャーター船で中国の天津、北京まで8泊9日、寝食を共にしながら未来の青少年リーダーを育成するため、埼玉について学んだり、中国の大学生と交流を図る)に参加した。
 初めての海外旅行が船旅でしかも中国と普通の人とは違う体験だったが、天安門広場故宮万里の長城など中国のスケールの大きさに触れ感動したのを覚えている。
それとともに、悪名高いニイハオトイレも目のあたりにしたり、ケンタッキーフライドチキン(中国風味はかなり脂っこかった)も体験した。
 中国の学生は全寮制で、12億から選ばれたエリートだけあって、ものすごく勉強熱心。将来の国を支えていくという気迫に圧倒された。
この旅を通じて、キャンパスライフをエンジョイするのもいいが自分ももっと勉強しなければと痛感した。

そんな夏休みも終わり、失恋の傷もすっかり癒えて2学期に突入。
相変わらず、バイトにサークルに忙しい日々を送っていた。恒例の11月の秋合宿は、中伊豆のサイクルセンターで行った。
免許をとってまだ1年だったが初めての長距離ドライブ。
始めは、誰も乗りたがらなかったが、いい車(日産ローレル)に乗っていたので、次第に人が集まってきた。
元彼女ともすっかりいいお友達になり、久しぶりの再会で近況報告をしあった。
また、各企業からダイレクトメールが家に舞い込んできたので、3年生同士、就職活動の話で盛り上がった。
(我々が入学した時は、まだバブルがはじけた直後ぐらいだったので先輩たちが、楽しそうに就職活動話をしていたのを昨日のことのように思い出す。その頃の様子は、映画「就職戦線異常なし」を見ると良くわかる。今は、もうあの頃の勢いはまったくない・・)

 正月休は、家で過ごした。昨年は、失恋に始まり、海外で国際交流を図ったりと人生において実りの多い年だった。
今年は、就職活動がメインになるが、常に自分らしさを失わず、学生生活で学んだことを中心に勝負していきたいと心に誓った。
休み明けの、後期試験はまたも「スライド式学費値上げ反対闘争」のため、試験のかわりにレポート提出となった。
この影響で、2月・3月はレポート作成のため図書館にこもることが多く、就職活動の情報収集があまりはかどらなかった。
無事すべての強化のレポート提出を終え、ホッと一息つくまもなく、各業界の就職説明会が始まった。

 自己分析やゼミの先生、両親、サークルの友人などの意見も参考にして、いろいろ考えたすえ、商社を第1志望にして、企業回りを始めた。
大学のOBを中心に話を伺っているうちに、やはり人と話をすることと、いろいろな国に行って新しいものを吸収することに自分は向いていると覚った。

 4月に入り、いよいよ就職活動も本番を迎え、企業回りをしたが、なかなか最終面接までは行かなかった。何度も同じことを聞かれ嫌気もさしてきたが、
お見合いと同じで(お見合いをしたことはないが・・)、企業との相性もあるので、自己嫌悪に陥ることなく就職活動を乗り切ることができた。

 サークルのメンバーの予想を大きく裏切り、6月上旬に某M物産に内々定をいただいた。元彼女も、親のコネ?で、商社に決定。
半年近くの就職活動を通じて、自分に自信を持って誠意で相手と接していけば、必ず自分のことを見てくれている人がいるということを学んだ。
ゼミ以外、ほとんど授業に出ることなく、前期試験を向かえた。就職活動やサークル活動等でキャンパス生活をエンジョイしすぎたつけがたまって、気がつくと卒業までの単位がぎりぎりだった。
相変わらずノート収集はせずに試験に臨んだ。自分の中ではある程度手ごたえもあった。

 今年の夏休みは、国際交流サークルに所属していたおかげで、韓国と鹿児島に旅行することになった。
 7月後半の1週間、鹿児島の鹿屋で、総務庁主催の「国際青年の村」に参加。このイベントに参加して、アフリカや中南米、ヨーロッパ、アジアと13ヶ国の学生が一同に会し、1週間寝食を共にした。
文化や風俗習慣の違いを知り、今でもメール交換する海外の友人を得ることができた。おまけとして、さやこ内親王(黒田さや子氏)にお会いすることもできた。
 ここで、長崎在住の日系ブラジル人の姉妹と親しくなり、ハウステンボス観光をご一緒したり家にまで招待してもらった。日本には、海外で育ち両親が日本人という方もたくさんいるということを遅ればせながらこのとき初めて知った。
 
 またこのイベントのおかげで近くて遠い国といわれた韓国に対しとても親近感を持ち、8月後半にわが町の姉妹都市である韓国の地方都市を訪れる前には、ハングルも少し独学した。
 そして、この韓国姉妹都市訪問で運命の出会いが訪れた。姉妹都市の日本語通訳の女性(当時22歳)と同世代だったため、日韓の若者事情について情報交換しているうちにとても親しくなった。
 旅が終わる頃には、住所の交換をして、その後も文通(その当時まだメールがなかった)を続けるうちに、彼女が日本に遊びに来てくれた。
そしていつしか、お互い恋人として遠距離恋愛をする関係になった。
ところが、彼女は両親に私との関係をいえなかったようで(というのも韓国の田舎ではその当時、まだ日本(人)に対して,偏った情報しかなくいい印象はなかった)、ある時、私の手紙がばれてそれ以来音信不通になってしまった。
 このとき国境を越えた恋愛の厳しさを初めて味わった。3度目の失恋・・。

 後期に入り、後は卒業するのみとなったが、せっかくの自由な時間をただバイトと授業でつぶすのももったいないので、11月にまた埼玉県のマリンセミナー(今年は、中国の上海、杭州)に青年リーダーとして参加した。
 2回目の中国訪問だけに、ある程度中国語もラジオで独学したので、現地の大学生との交流も楽しめた。そこで知り合った山西大学日本語学科3年生と文通(当時はまだEメールが普及していなかった)をすることとなった。
 彼女と月2回、お互いの自己紹介から手紙のやり取りをするうちに、いつしか勤務で中国を訪れたいと心の奥底で思った。

 大学生活最後の正月休みは、両親と温泉旅行に出かけた。あとは、卒業のかかった後期試験の勉強。なにせ単位がぎりぎりなので1つの教科も落とせない。大学受験以来の猛勉強だった。
 1月の後期試験も何とか乗り切り後は卒業式を残すのみ・・と思っていたが、人生何が起こるかわからない。
 ここで、人生最大のショッキングな出来事が起こってしまった。
 なんと、2つの授業の単位が取れず、留年決定。
 テストは前期も後期もできたのになぜ・・という怒りがこみ上げてきた。
 担当教授に説明を求めたところ、「いくらいい点をとっても、授業の出席率が60%以下は、論外」と切り捨てられた。
 就職活動で前期ほとんど授業に出られなかったのが響いた。結局、救済されず、就職の内定が取り消しになったことと、ご学友と一緒に大学を卒業できなかったことのダブルショックでしばらく何も手につかなかった。

●失意の留年編
 http://blogs.yahoo.co.jp/tomohappiest/51657006.html