最近本屋の陳列棚を見ると、目の届く範囲にやたら、自分史に関する本が目に付く。ちょっと立ち読みしてみると、TVではノホホンとやっているように見える人も、実は今まで歩んできた道はかなり紆余曲折がある。そして本を読み終えると、とても勇気付けられている自分がいる。
私は、まだ人生の折り返しにも達していないが、自分史なるものをつけて、今までの歩みを振り返ってみた。今の自分があるのも(そんな立派には成長していないが)、両親や兄や友人たちはもちろんのこと、周りの環境にも恵まれたと思う。
これから、まだ長い人生が待っているので、まずは一緒に苦楽を共にするパートナーを探さなければと思う今日この頃である。
【誕生】
元気な男児として世の中にデビューした。写真で見ると(私の記憶にはにはない)幼稚園までは、栄養満点ふっくらした体型を維持していたようだ。
【幼稚園編】
幼稚園のころ、物心がまだついたかつかないかの時、記憶の片隅にあるのは、同じ月組みの双子の姉妹。
妹さんのほうに淡い恋心を抱いたような気がする。
近くに遠足にいくときにお手手つないだり、夕涼み会でお遊戯したり、浴衣姿に見とれていた。きっとこのころから、浴衣に対する愛着を抱いたのだろう。
その後はというと、彼女とは小学校が別になり、気変わりが早いのか(誤解をしないように・・)小学校低学年のときは音楽の先生にあこがれた。その先生のおかげで音楽が好きになり、音楽なしでは生きていけなくなった。
【小学校編】
小学年になると、典型的な野球少年。毎日親父とキャッチボールをしたり、 放課後、近所の子供たちとやわらかいボールで、野球をしていた。
まわりの子はジャイアンツのGマークの野球帽をかぶっていたにもかかわらず、私はというとなぜか昔から半眼びいきなのか、大洋ホエールズWマークの帽子をかぶっていた。
休日は、少年野球チームの練習に夢中。肩のよさを買われてポジションはサード。4年生の時には、少年野球チームが集まったスピードコンテストで92KMを出して、3位入賞。これを見た監督がピッチャーにコンバート(当時ピッチャーは花形ポジション)したが、いかんせんコントロールが悪く、公式試合でストライクがなかなか入らず自滅・・。それ以来試合で登板する機会はなくなり、半年後には元のサードのポジションに定着。
高学年になると、サッカー好きの先生が担任となった。野球の才能がないのかとちょっと自信喪失していたころに、当時はマイナーなスポーツだったが、マラドーナやジーコソクラテス、ゾフ(イタリアの無失点記録保持ゴールキーパー)などが活躍したイタリアワールドカップを見て、ますますサッカーにはまっていった。
放課後には、担任の先生とともにクラスを2チーム(確かチーム名はサッカー選手の名前を取ってマラドーナとケンペスだったと記憶している)にわけて、暗くなるまで校庭を駆け回っていた。
同じ野球のスポーツ少年団に入っていたクラスメイトも、私と同じく先生との出会いがきっかけでサッカーのスポーツ少年団に入った。
サッカーは野球と違い、自分でいろいろゲームを組み立てたり、相手をフェイントでかわしシュートをする個人技も発揮でき、私の性格にあっていたようだ。
運動神経には自信があり、体育は常に3段階評価で最高の3だった。また、算数だけは公文式に通っていたので成績はよかった。しかし、後の教科は、3段階評価で2。小学校では、男の子のもてる基準は、スポーツができること。 そこそこ女の子にはもてたかもしれないが、シャイだったので、そのころはサッカーボールがお友達だった。(そのころ流行していたアニメ「キャプテン翼」のボールとお友達状態)
今と違って、中学受験をする人は1クラス1人くらいしかいなかった。当然のように、放課後、校庭でサッカーをしていた仲間たちと共に、同じ公立中学校へ進学。体を動かすのが大好きなサッカー小僧だった。
(続き)
【自分の歩みを振り返る(中校・高校編)】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomohappiest/51725548.html