tomohappiestの日々是雑感

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明治維新への道筋(坂本龍馬)について

 今年のNHKの大河ドラマが「坂本龍馬」であることをご存知の方は多いだろう。
 主人公の龍馬役が、女性(男性も?)に大人気の福山雅治さんということで、若い女性の視聴者もふえているのではないだろうか。最近では、歴女なる言葉もマスコミを賑わしており、歴史ブームのようだ。
 おもに、ゲームなどを通じて、戦国の武将の生き方などに共感を持つ人が多いと聞く。
 きっかけは何であれ、過去の歴史やその人の生き方などから学ぶことは多いと思うので、とてもいいことだと思っている。

 私も、小学生のときに、歴史漫画を休み時間や放課後読んだことがきっかけで、歴史好きになった。初めは、誰と誰が戦って、どっちが勝ったなどたわいもないところから興味を持ったが、自然とそれだけでは飽きがきてしまい、もっといろいろなことを知りたいと探究心が沸いてきた。そんなきっかけから、旅行に行くときは、必ずといっていいほど、その土地の博物館にいかないと気がすまない。
 
 子供の頃は、特に男の子だと戦いものに興味を持つ傾向が強く、戦国時代の織田信長武田信玄豊臣秀吉やそれに関係する人物を中心に本を読むことが多かったと記憶している。
 
 徳川の江戸時代になると、大きな戦乱はなくなり、政治,行政、経済などの話題が中心になる。
 時代劇など大衆文化や勧善懲悪(正義が勝ち悪は滅びる)ものから、興味を持ち始めた。
 
 しかし、幕末の志士や明治維新の頃の話は、時代が今と近いこともあってか、あまりTVでは取り上げられなかった。(何度か大河ドラマで放映があったが、内容が難しくついて中学生の頃はついていけなっかた・・)
 また、学校の授業でも、明治以降の話は時間がなくてプリントですまされてしまった記憶があり、近代史をしっかり学んでいなかった。

 しかし、歴史を振り返ると、明治維新によって鎖国体制の封建制度から日本も諸外国の政治文化を取り入れ議会制民主主義へと進むことになった。そう考えると、今の日本の礎を作った大きな歴史の転換点の1つである。
 
 日本を近代国家に導いた「維新の三傑」として、西郷隆盛大久保利通木戸孝允が挙げられるが、彼らが維新を成し遂げるきっかけを作ったのが、坂本龍馬。彼の生き方などは、参考図書を読めば理解が深まると思う。

★幕末の歴史を大まかに振り返ってみる。
 
 幕末のころの日本は、鎖国状態のため、一部の知識人や商人を除き、外国船が日本に来るまで、平和ボケしていて世間知らずだった。
 そんな時代ではあったが、長州藩は、先見のめいがある吉田松陰松下村塾を開講し、門下生の木戸孝允高杉晋作板垣退助尊皇攘夷派を育てていた。

 ところが、隣の清(現中国)が、1840年アヘン戦争などを通じイギリスなど列強に支配され、1853年にはぺリー艦隊の黒船を浦賀沖に現れ開国を迫ってきた頃には、尊王攘夷派(天皇中心で外国を追い払う)と幕藩開国派へと分かれていく。
 
 坂本龍馬は、浦賀吉田松陰はじめ長州藩の志士たちと会っている。
 浦賀に2回目に現れたペリーに、アメリカに連れて行ってくれと嘆願したが拒否され、幕府に自首して獄につながれていたが龍馬に助けられた。

 1858年に大老井伊直弼が、アメリカと日米修好通商条約を結び、下田、函館に続く港(横浜、長崎、新潟、兵庫)の開港や治外法権関税自主権がない不平等条約を結び、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも安政の5か条条約を結んだ。
  そんな時、幕府内では、紀州派と一ツ橋で14代将軍について争っていた。
 越前藩、薩摩藩水戸藩など一ツ橋派は、14代将軍に一ツ橋家の慶喜を押したが、紀州派は血筋を重視してまだ20歳前の慶福(家茂)を将軍職に押した。 
 
 将軍の跡継ぎ問題にも敗れた、水戸藩主の徳川家斉、越前藩の藩主松平慶永や部下の橋本左内薩摩藩主の島津斉彬や部下の西郷隆盛大久保利通らは、このままでは、幕府ではもはや国政を任せられないと考え、尊王倒幕へと思想が変わっていった。
 
  
 1959年(安政6年)に井伊直弼は、一ツ橋派の粛清を実施し、尊王攘夷派の公家や橋本左内吉田松陰を処刑し、尊王攘夷派を糾弾した一掃した。(安政の大獄

 これで反発を受け、井伊直弼1860年桜田門外で水戸藩の志士に殺害され、幕府の権威が揺らぎはじめた。(桜田門外の変

 幕府は、尊王攘夷派を抑えるために、朝廷(天皇)と融和を図るために、公武合体政策を行い、孝明天皇の娘の和宮を14代将軍家茂の妻に迎える。しかし、これを実施した老中安藤信正尊皇攘夷派に坂下門外で襲われ失脚した。
 
 その後、幕府は、薩摩藩の幕政の改革要求を受け入れ、尊皇攘夷派の長州藩公武合体を支持する薩摩藩との間に軋轢が生じた。長州藩幕府軍薩摩藩など)との京都御所周辺での戦いに破れ、朝敵にされ、1864年幕府軍は長州征伐を実施した。
 
 同年、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊が、長州藩の下関を砲撃し、近代兵器の威力を知り、高杉晋作木戸孝允が実験を握って攘夷派から開国派へと変わっていった。
 薩摩藩でも1862年生麦事件の報復で、翌年、イギリスが鹿児島を砲撃した薩英戦争で、同じく開国派へと変わっていった。
 
 幕府が、また長州征伐を行う頃(1866年)、坂本龍馬が間に入って、犬猿の仲だった薩摩藩(西郷)と長州藩木戸孝允)で薩長同盟が成立し、イギリスの最新鋭の武器を駆使して幕府軍を破った。
 14代将軍家茂が長州征伐時に亡くなり、公武合体の象徴だった孝明天皇も逝去したため倒幕の勢いが増した。

 1967年に明治天皇が即位し、公家の岩倉具視の仲介で薩長は倒幕の蜜勅を受け、15代将軍慶喜は、京都二条城で朝廷に大政奉還(政治を天皇に返す)をした。その後、同年12月に王政復古が行われ、江戸幕府は終焉を迎えた。
 
 旧幕府側として勝海舟と新政府側の西郷が、交渉を重ね、1968年4月に江戸城無血開城することで、江戸を火の海にすることから救った。(薩摩藩主の養子であり、旧幕府の御台所であった篤姫もこの件に貢献したことは、「NHK大河ドラマ篤姫」で描かれていた。)

 
坂本龍馬とは
 
 幕末の土佐藩士。裕福な商家を本家に持つ下級武士の二男として坂本龍馬は生また。
 当時、土佐藩では上士と下士という厳格な身分制度が適用されており、下級武士に生まれた坂本龍馬下士であったため、いくら勉学や剣の道に精進しても将来において出世を遂げることは極めて不可能な状態にあった。この身分制度に嫌気が差し、土佐藩を脱藩し、日本全国をまたにかけて日本の改革に精力を阻止だ注いだ。

 江戸で北辰一刀流を極めた坂本龍馬は、勝海舟の門を叩き、当時勝海舟が手掛けていた神戸海軍操練所の設立に貢献し人脈を徐々に広げていく。
 当時犬猿の仲と言われた薩摩藩長州藩の中に入って薩長同盟を締結させ、幕府に対抗できる一大勢力を誕生させる。
 また、当時の土佐藩山内容堂をして1867年、徳川将軍に大政奉還を根回しさせ、明治新政権の誕生に多大な功績を果たしたが、同年、33歳の誕生日を迎えた11月15日、京都伏見の近江屋で新政府の誕生を見ずに刺客の刃に倒れる。

坂本龍馬を知るための参考図書
 はじめての坂本龍馬(齋藤 孝著)
 勝海舟の人生訓 (童門 冬二 著)

坂本龍馬 名言  
http://www.weissblitz.com/sakamoto_ryoma.html