また、憲法97条に「侵すことのできない永久の権利として国民に信託されている」と記載されている。最も尊重すべき国民の権利に「基本的人権」があり、人権の固有性・不可侵性・普遍性という重要な観念をみることができるが、残念ながらしばしば日常生活や国家間の争いなどで人権侵害にまつわることが繰り返し起こっている。
また、基本的人権の尊重にかかわることで、ジレンマに直面することがある。
マイケルサンデル氏の道徳哲学の授業でも命の重さにかんする生命倫理や自由競争による貧富の格差問題などが取り上げられるが、必ず基本的人権を尊重するうえで切っても切れない関係にあるものに「正義」という概念がある。
正義って何だろうと辞書で調べると・・
(1)正しい道義。人が従うべき正しい道理。「―を貫く」
(2)他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てること。
子どもの頃はウルトラマンなど正義の味方のヒーローもので、年配の方などは水戸黄門などの時代劇でおなじみの言葉だろう。勧善懲悪で悪を倒すという意味だろうと思いつく。しかし、世の中すべて勧善懲悪で割り切れることばかりではない。世界の紛争地域などは、必ずお互いに正義の言い分がある。
正義とは何かを身近に考えるために、ここで以下の問いについて考えてもらいたい。
・死刑制度は廃止すべきか。
・戦争だったら人を殺してもいいのか。
・船が沈没しかかっている。海にはいればすぐに凍死してしまうとする。自分と他人がいて、救命ボートが目の前にあるが、1人しか乗れない場合どうするか。(もう1人が自分の身内だった場合はどうするか)
・あなたがが医師で、宗教上の理由で輸血を拒否している意識不明の人が病院に運ばれてきた。輸血をすれば命が助かる場合、どうするか。
特殊的正義は、さらに矯正的正義と分配的正義に分けられる。矯正的正義は、友人に貸したお金の返済が滞っているときなどに返してもらって元に戻すなど不均衡不平等を直すこと。
一方、分配的正義は、財産権力などを各人の価値に応じて比例的に分配することと定義した。
分配的正義と聞いて、とっつきづらい話題だなと思う方が多いだろう。
普段の生活で、正義の解釈などで判断に迷う(悩まされる)場面に出くわすことが少ないからだと思う。
しかし、よく考えると、子どもの頃から、兄弟でのケーキを平等に分ける取り合い(最近は一人っ子が多いからそんなジレンマもないのか)から生じる。
例えば、末弟が病み上がりだったら、今までおいしいものが食べられなかったのだからお兄ちゃんは我慢して全体の3分の1でいいでしょう・・などと子どもの頃に親から言われ、それは不公平・・と心の中でつぶやいた(大声で泣いて親に訴えた)経験があるだろう。
余談だが、数学的(感情をはさまなければ)にはケーキを平等に分けるには半分づつだが、正確に測れない。そこで、一方に半分と思われる量にケーキを切ってもらって、残りの1人が、切り終えたケーキを選択すれば、争いは起こりづらい。
経済学では、富の分配の正義にかんしては、どうやって全体(ケーキの量)を大きくするかに焦点が当てられた。
イギリスの経済学者のアダムスミスは、財の交換である市場を自由にしておけば、神の見えざる手(W杯でのマラドーナの伝説のゴールで聞き覚えがあるだろう)で富は最大になると考えた。国は余計な介入はせず、自由競争がいいという小さな政府の考え方に繋がる。全体量が大きくなれば、多少分配に不平等があっても、それなりに贅沢に暮らせると考えた。
それに対し、イギリスのジェレミーベンサムは功利主義(最大多数の最大幸福)を目指すことを提唱した。法は、人々の快楽の最大化、苦痛の最小化を目的とすべきであり、より分配の正義にかなうと主張。 合理的に効用をプラスマイナスして、プラスが最大になればいいという考え方だ。
全体利益を優先させ、個人の基本的人権を犠牲にしてはいけないと主張している。突き詰めると貧富の格差などの不平等が生じるが、第二原理でけん制している。
第一原理
各人は、他人の権利を侵害しない範囲で基本的諸自由への最大限の権利を有する。
各人は、他人の権利を侵害しない範囲で基本的諸自由への最大限の権利を有する。
第二原理
種々の社会的・経済的不平等は、以下の両方を充たすように設定されなければならない。
種々の社会的・経済的不平等は、以下の両方を充たすように設定されなければならない。
①もっとも不幸な人々の状況が最善になること
②機会の平等が守られること
第二原理の機会の平等とは、A形式的機会の平等(スタートラインの平等)とB実質的機会の平等(実力によってスタートラインをかえることも可)がある。
受験などで、入学金や授業料が高かったら、裕福でない家庭の子は受験をためらい、Aに反する。そこで、学校側は奨学金制度を充実させるなどの対策をする。
Bは受験資格は平等でも貧しい家庭の子は塾にいけないため、受験テクニックなどを学ぶ機会を失い学力差が生じてしまう。そこで、親の所得が低く塾へいっていない子に、塾代を補助したり、入学試験の点数を上乗せするなどの対策が実質的機会の平等。(平等の基準を測るのが難しいが・・)
さらに結果の平等という考え方もあるが、これでは、社会主義にちかく、競争や自由経済の思想からかけ離れてしまう。一時期、かけっこの遅い子がかわいそうだから運動会の徒競走で順位をつけないということもあったが、子どもたちの意欲や努力する心を失わせてしまう危険がある。
ロールズの機会の平等に反する反論は、人生観、価値観は人それぞれいろいろあり、分配のルールを固定化することで個人の自由を侵害する。
また、貧富の差の平等を考える際、お金持ちになった過程を無視して、宝くじで当たろうが一生懸命働いたお金であろうが同じ所得として扱っている。
そこで、税制でも相続や贈与で所得が増えた場合は、税率を高くして、勤労所得の所得税に比べ税負担を重くするなどしている。
私は、生命身体財産の自由を保障する基本的人権を最大限保障しつつ、時代や環境の変化に柔軟に対応する多様な価値観を尊重するバランス感覚が大切なのではと思う。言うはやすし行うは難しだが・・。
人によって考え方がことなりジレンマが生じる悩ましい問題は、世の中にたくさん潜んでいる。