tomohappiestの日々是雑感

日常生活でのふとした出来事から大イベントまでその時感じたことを書いていこうと思っています!!

秋の高麗の里を堪能

 先日(9月26日)、埼玉県の西部、日高市にある高麗の里「巾着田(きんちゃくだ)」に行ってきた。
ここは知る人ぞ知る、関東でも有数の彼岸花(曼珠沙華)の群生地として有名である。
 
 高麗と聞いて、朝鮮半島と関係あるのではと思った方はお目が高い。ここは、高麗人が移り住んだ地で聖天院や高麗神社など高麗王若を祭る神社もある。
 駅前には、赤い柱またっており、異国の世界に来た気分。
 韓国ドラマが好きな人は、高麗と聞くと、日本の奈良時代に栄えた朝鮮半島の国「高句麗」を思い出すだろう。
 韓国ドラマ「チュモン」では国の建国までの歴史、「風の国」では高句麗時代が描かれてた。
 
 すぐに、巾着田に行く方がほとんどだが、軽登山が好きな私は、まずは巾着田が見渡せる日和田山に登ることにした。といっても305mなので小さな子どもも登れるハイキングコースでもある。(そういえば、小学校4年生の遠足で登ったような記憶が蘇ってきた・・)
 コースはよく整備されていて、途中で男坂、女坂に分かれるが、行きはよいよい帰りは怖い・・とよく言われるので、登りは急な男坂を選択。
 
それでも休憩も入れながら約30分で見晴らしのいい広場に到着。森林浴もできて軽い運動にもなった。
 ちょうど、正午で、頂上は人でごった返していた。振り返ると、巾着田が目の前に飛び込んできた。
 何で巾着田というのかがよくわかった。イメージ 1
 
イメージ 4
高麗川沿いにある水田だったのだが、ちょうど高麗の里あたりで、川が蛇行し巾着(財布)の形をしていることからこの名前が付いたと言われている。
 持参した双眼鏡をのぞいてみると、人がたくさんいて、川岸は、彼岸花と人、中央にはコスモス畑、そしてなぜか馬も飼育していた。
 遠くには、奥武蔵や奥多摩の山々、西武ドームなどもはっきりと見えた。この広場は日和田山の中腹にあり、金刀比羅神社がある。
 また、このあたりは昔海だったということがわかる岩盤がむき出しになっていて、ちょうどランチの椅子がわりにもなった。イメージ 3
 しばし景色のパノラマを堪能し、下山は女坂を選択。こちらは景色は木々にさえぎられて見えなかったが、森林浴ができて、体がリフレッシュできた。
 
 下山後、歩いて5分で、先ほど見下ろしていた巾着田に到着。人の流れについていって、高麗川沿いを歩くと、目の前に赤い絨毯が広がった。イメージ 2
 
 まさにこの世の極楽浄土?と言わんばかりの彼岸花の群生が現れ、思わず何枚もシャッターを切った。
 今年は暑かったこともあり、例年より10日くらい遅く、ちょうどみ見頃を迎えていた。(日頃の行いがいいからか?)
川沿いから広場に戻ると、水田はほとんど残っていないが、用水路にはトンボ魚もいて、里を実感できる。
 コスモス畑もきれいで、花フリークとしては最高の1日だった。
 コスモス畑と日和田山をバックに写真をとった。また1つ思い出アルバムが増えた。
 
 
★日高巾着田 (公式サイト)
訪れる前に開花情報をチェック!
 
巾着田だけでなく周辺の観光スポットの体験談もあり、とても参考になる。
彼岸花同様、作者も美しい
 
★高麗の里
 直径約500メートル、面積約17ヘクタールの高麗川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲く。秋の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)群生地は辺り一面が真紅に染まり、幻想的な世界に浸れる。
西武池袋線高麗駅(池袋から1時間)下車徒歩5分
 
 季節ごとに花の名所を紹介
 
★高麗王・若光
 高句麗国は中国大陸の松花江流域の扶余に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部(満州・遼東)から朝鮮半島の北部を領有し、平壌を都として約700年の間、君臨していた。ところが668年に唐と新羅の連合軍の攻撃にあって滅亡し、この時に多数の高句麗の貴族や僧侶が日本に渡って難を逃れた。続日本紀文武天皇大宝3年(703年)の條に従五位下高麗若光に王姓を賜うとある。高句麗の王族であり、優れた人物でもあった若光は特に優遇された。霊亀2年(716)に主に東国(関東)に散在していた高句麗人のうち、1799人が武蔵国に集められ新しく高麗郡が設置された。その首長を命ぜられて郡を治めたのが高麗王若光である。その後、大陸の文化をもって、武蔵の荒野を開いて産業を興し、民生を安定し大いに治績を収めた。
しかし、王若光が再び故国の土を踏むことはなく、天平2年(730)に没する。その高麗王若光を祀ったのが高麗神社。
 
 高句麗国の建国までの歴史がよくわかる。ストーリーも恋愛あり、権力争いありと見ていて飽きない。